FAZER LOGINあの誕生日パーティー。
光也の言葉に、実花は息を呑んだ。
あの日。
全てが大きく動き始めた日。
光也が突然現れた日。
「あの日、何が――」
「その続きは今度だ」
「え?」
(今度?)
聞き返した実花の頭に光也は手を置く。
我慢が利かない子どものような扱いに小さく不満を感じたが、光也が恒一と美鈴へ一瞥を向けたことで気づいた。
「余計なギャラリーがいる」
その一言だけで十分だった。
「こういう話は二人きりでするものだ」
(それって……)
そういう流れの話なのか。
実花の頬が熱くなる。
「先に正式な婚約だな」
光也は何でもないことのように続ける。
(婚約……が、先?)
「なんでそうなるんですか?」
「婚約前に君に手を出したら、お義父上に怒られ
「今日はお時間を作っていただいて、ありがとうございます」待ち合わせたカフェで席に着くと、実花は深く頭を下げた。京は柔らかく笑う。「気にしないで。『会いたい』なんて可愛い子にお願いされて断る理由ないじゃない」「でも、急だったのに……」「大丈夫よ、無理なんてしていないから」そう言って紅茶を口に運ぶ。「それにしても、あの光也がこんな常識的で可愛い子と婚約するなんて」思わず頬が熱くなる。「京さんは……」東国家とは懇意にしていますよね。篠原真理のことを何か聞いていますか。そう言いかけた言葉が止まる。「光也さんの、叔母さんなんですよね」口にした瞬間、自分でも恥ずかしくなった。(何を聞いてるの……)それはすでに知っていること。東国のパーティーで光也からそう紹介されている。(話の切り出し方が分からなかったからって……)京は体を小さくする実花を見つめ、笑った。「光也があなたのことを困らせてるの?」実花は思わず顔を上げる。「図星みたいね」「い、いえ……その……」否定しようとして、言葉が続かなかった。京は苦笑する。「あの子ね、昔からそういう子なの」「昔から……?」「昔から、まるで、自分一人で生きてるみたいな子だった」京は懐かしそうに窓の外を眺めた。「誰かに頼ることもしない。甘えることもしない。人を遠ざけるわけじゃないけど、自分から近づくこともない」「……」「傍にいたのは航くらいかしら」実花は静かに耳を傾ける。「今思えば、大人の私
【航視点】「お前、実花ちゃんに何かした?」コーヒーを置きながらそう聞くと、光也は怪訝そうにこちらを見た。「何だ?」「何だじゃねぇよ」航は腕を組み、深く息を吐く。「実花ちゃん、最近様子がおかしいぞ」光也は眉を寄せた。「そんな気はしていたが、そういうこともあるだろう」「まあ、そうだがな」航の曖昧な返事に、光也の眉間にしわが寄る。「実花ちゃんの様子がおかしくなったのって、この前、ほら、例の彼女が会社に来て、実花ちゃんと会った日だぞ」「ああ」光也は納得したように頷く。「その件なら問題ない」「……は?」「実花には、今は言えないこともあると説明した。実花も納得している」航は数秒、言葉を失った。「……納得してる、じゃねぇよ!」思わず机を叩く。光也は少しだけ眉をひそめた。「何だ?」「何だじゃねえよ! お前、なにそれで納得してんだよ!」「……違うのか?」「違うに決まってんだろ!」航は頭を抱えた。(この男、本気で分かってねぇ……)「客観的に考えてみろ」指を一本立てる。「婚約者が、知らない女と社長室で二人きり」二本目。「お前は他人に虫けらほども興味を示さない男だ」「否定はしない……それが問題か?」「それは今回は問題視しない。問題は、そのお前が彼女には親切にしてることだ」光也が首を傾げる。「話をしていただけだぞ」「お前の場合、それが超親切に該当するんだよ!」航は盛大にツッコミを入れた。「実花ちゃんからしたら、不安になるに決まってるだろ」光也は腕を組み、静かに考え込む。「分かったか?」「……いまいち分からない」航は天井を仰いだ
真理と社長室で会ってから、一ヶ月経った。実花の胸には、まだ小さな棘が刺さったままだ。それでも日常は何も変わらない。学校へ行き、授業を受ける。光也とは火曜日のバイトで会う。光也は以前と何も変わらなかった。真理も変わらない。何度か学校に来て、来る前日に実花に連絡が来て、お昼休みに図書室で会う。穏やかに笑うことも。実花へ話しかけてくる声も同じだ。まるで、何事もなかったかのように進んでいる。だからだろう。実花は自分だけ置いていかれている感じがしていた。.「そういえば、この前の土曜日。東国さんと会ったんでしょう?」いつも通り図書室で会うと、真理にそう言われた。土曜日。確かに実花は光也に会わないかと誘われた。(でも……)「ううん。土曜日は用事があって」「そうだったんだ」真理との会話はそこで終わったけれど、実花の中にはモヤッとしたものが残った。(どうして土曜日に東国さんが私を誘うことを知っているの?)どこかで二人は会っていたことになる。そこで二人はどんな会話をしたのか。自分は二人の間でどういう存在なのか。(共通の知人、それとも……)お邪魔虫。実花は隣にいる真理を見る。視線に気づいたのか、真理がこちらを見て首を傾げる。その表情から、敵意とか嫌悪とかは感じない。実花は少しだけ安心した。(あのとき、「今は言えない」って言ったのは……)きっと、本当に事情があるだけなのだ。光也も、真理も、実花を傷つけようとしているわけではない。だから嘘を吐いたり隠したりせず、「今は言えない」と正直に伝えてくれた。「待っていてくれる」と信頼されていると思えば、嬉しくもある。けれど。そんな気持ちは長く続かな
「えっと……そうだよね、今日は火曜日……だった」「……うん」真理の言葉に実花は頷く。つばを飲み込む。「あの……どういう関係、なの?」実花は勇気を振り絞って問いかけた。真理は小さく息を呑み、実花を見つめる。その瞳には迷いと苦しさが滲んでいた。「ごめん」小さな声。「今は言えない」それだけ言うと、真理は深く頭を下げる。「本当に、ごめん」真理は実花の横を通り過ぎると、足早に去っていった。まるで逃げるような後ろ姿だった。「……真理」呼び止めたい。追いかけたい。けれど、真理の苦しそうな顔を思い出すと足が動かない。胸の奥だけが苦しく締めつけられていく。実花はゆっくりと視線を上げた。そこには光也が立っている。静かな表情で、何も変わらない、いつもと同じ顔。(聞けばいい)そう思った。実は知り合いだったのか。なぜ、二人で会っていたのか。(東国さんなら……)そう思ったところで、考えが止まった。(……“なら”?)もし、真理と同じように「今は言えない」と答えられたら?その可能性は高い。先ほど真理が目の前で、実花の質問にそう答えたのだから。もし、光也まで同じ答えを返したら。それは、真理の意思を優先したことになる。実花の質問よりも。(……まるで被害妄想じゃない。何か事情があるのかも……)でも、想像できる事情が一つしか思いつかない。特別な関係。胸がちくりと痛む。その痛みが、前の人生の記憶を呼び起こした。前の生で、実花は恒一に聞いたことがある。『私と美鈴さん、どちらが大切なの?』あの頃の自分は、本当に苦しかった。
真理と光也の姿を見て以来、最初の火曜日が来た。実花はギリギリまでバイトをどうしようか悩んだ。しかし、結局予定通りバイトに行くことに決める。一度引き受けた仕事だからだ。自分の気持ちを理由に投げ出すつもりはなかった。ただ、できることなら、その前に真理と話したかった。真理はあの日から学校を休んでいる。通信クラスの生徒は、表向きには在籍していないことになっている。そのため、先生へ理由を尋ねることもできなかった。連絡をしようかとも思った。けれど、何と聞けばいいのか分からない。光也とどういう関係なのか。そんなことを尋ねる権利が、自分にあるのだろうか。考えているうちに、目の前に車が停まった。光也の車だ。助手席の窓が開き、「実花」と呼ばれた。いつもと変わらない光也の声だった。「乗れるか?」実花は頷いて、助手席の扉を開けて乗り込む。運転席には光也が座っている。「悪い、遅くなった」「いえ……瀬名さんは?」以前の緊急のときは別にして、バイトの日はいつも航が運転手を務めていた。交通量があるので路駐しにくいというのが理由だった。「俺よりも航に会いたかったのか?」「いえ……」そんなことはない。そう言うつもりが、喉のところで言葉が止まった。航がいれば、ホテルのことを聞きやすかったのにと思ったからだ。真理。ホテル。あの日の光景。意識した途端、身体が強張った。光也が横目で実花を見る。「どうした?」「……何がですか?」「いつもと違う」すぐに気づかれたことに、胸が揺れる。それなのに、光也は自分が原因だとは少しも思っていないようだった。やはり、何もなかったのだろうか。あの
思わず肩を震わせながら画面を見ると、表示されていた名前は予想とはまったく違っていた。実花のお花の先生だった。「あ……」張り詰めていた身体から、一気に力が抜ける。知らないうちに、こんなにも緊張していたらしい。実花は胸を押さえ、小さく息を吐いてから通話ボタンを押した。「もしもし、先生」『実花さん、急でごめんなさい』先生の声はいつもより慌ただしかった。『明日の展示会なんだけど、受付をお願いできないかしら』「受付、ですか?」『本来お願いしていた方が急病で入院してしまって……困っているの』華道家が集まる展示会。一般的な催しとは違い、受付にも礼儀や所作が求められる。だからこそ、本来なら高校生の実花へ頼まれる仕事ではない。(でも……)――君になら任せられると思った。以前、光也に頼られたときの言葉を思い出す。「私でよろしければ」『助かるわ』先生はほっとしたように笑う。『夜はレセプションもあるから、そのまま参加してちょうだい』「レセプションもですか?」『ホテルのお部屋はこちらで用意するから安心して』実花は少し驚いたものの、すぐに返事をした。「ありがとうございます」◇◇◇その夜。「泊まり?」実篤が思わず箸を止めた。「はい。明日なのですが、展示会の受付と夜のレセプションのお手伝いです」「そうか……」実篤は少しだけ考え込む。「東国君と一緒じゃないだろうな?」「違います!」実花は思わず声を上げた。「先生のお仕事です」実花は急いでスマートフォンの画面を実篤に見せた。先生から送られてきた展示会に関する資料。覚えることが一杯だが、実花は頑張ろうと思っている。「分か
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい







